法華経を学ぶ

妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六

クシナガルの釈尊涅槃像
クシナガルの釈尊涅槃像

 今から2500年程昔、釈迦族の皇太子であられたお釈迦様は、29歳の時に妻のヤショーダラ妃と息子であるラゴラを残し、カピラバストーの城から一切衆生の苦しみを救う真理を求めて出家修行の旅に出た。そして、6年後の12月8日、現在のブッダガヤーの菩提樹の下に坐し、お悟りを開いて仏陀(覚者)となられたのである。成道後四十年近くは、仏弟子や人々の求めに応じて、彼らを導くために隨他意(ずいたい)の教えを説き、八十歳でご入滅になるまでの晩年の八ヶ年、現在のラージギル、かつてのマガダ国の王都王舎城にある霊鷲山で、ご自身の悟りのままの隨自意(ずいじい)の教えを説かれたのが法華経であり、その中心が如来寿量品第十六なのである。

如来寿量品の大意

 前章の従地涌出品(じゅうじゆしゅつほん)第十五にて、今までに見たこともない、地より涌出せる無数の菩薩達はどういう意味の菩薩たちなのか、という弥勒菩薩等の疑意に答えられたのが本品である。それは今までにない、広大にして脈々と息づく教えであった。

 

 釈尊は三誡三請(さんかいさんしょう)、重請重誡(じゅうせいじゅうかい)の後、自らが釈氏の宮を出て、道場に坐して、この四十余年にて悟りを得たと考えているが、そうでは無く、成仏して以来無量無辺なる時間を経ていることを訴えた。それは想像できないくらいの歳月であり、その間、この娑婆世界(しゃばせかい)にあって種々なる説法教化をして来たのである、と。しかも、如来が説かれてきた教えはすべて人々に人間としての生き方を教えんがためのものであり、本仏・他仏・諸菩薩・諸天・諸人・諸現象等(趣意―六或示現)をもって説かれて来たすべての教えはすべて真実なのである。


 それは、如来(仏)とは、一人の覚者ではなく、在世・滅度などもなく、「実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず、」と言うように、すべてに遍満しているものであるからである。言い換えれば、仏は個ではなく、遍満し、すべてを包み込む全体―空間(仏界)と言えよう。また、これは単なる全体ではなく、「我れもと、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今なお、いまだ尽きず」と言うように、人々に道を教えようという、お示しと働きかけをもったものである。


 如来(仏)が、こうした姿であるにもかかわらず、滅度を持つのは、人間は常に人を頼り、安易な気持ちをもたないようにするためであり、滅することによって大切なものに気づかせるためだからである。「良医の喩え」は、このことを顕わし、死なない命(仏)を訴えている。そして、「自我偈」はこれらをまとめたものである。


日蓮宗修養道場(石川道場)述


三つの開顕(かいけん)-真実を顕わす

ブッダガヤー大塔内の釈尊像
ブッダガヤー大塔内の釈尊像

 昔から如来寿量品でもっとも重要な教えは「開近顕遠(かいごんけんのん)」と「開迹顕本(かいしゃくけんぽん)」と「開権顕実(かいごんけんじつ)」であるといわれる。


 まず「開近顕遠」とは、「近きを開いて遠きを顕わす」ということである。釈尊が人類の前に人間として姿を現して教えをお説きになった事実を近(ごん)という。遠いということは、釈尊がこの世に姿をお現しになるはるか昔ということである。近い事実は釈尊の出世であり、遠い因縁は無限の過去ということ。開近顕遠とは釈尊の出世という近い目に見える事実を通して、無限の過去にひそむ遠い因縁を明らかにすることである。


 次の「開迹顕本」とは、「迹を開き本を顕わす」ことである。迹(しゃく)とは形に現れた仏のことで、釈迦仏、多宝如来、阿弥陀如来などのことであり、本(ほん)とは根本の目に見えない仏のことである。迹とは現れたということで、本とは隠された本元のもの、ということである。「迹を開き本を顕わす」とは、現れた仏を通して、その根本である永遠の仏を知ることである。本当の信仰をもつためには、永遠に存在する仏というもの、絶対の仏というものがなくてはならない。釈尊という方は永遠の仏の生命を具現した方であるのだ、というように理解することによって信仰は不動のものとなるのである。


 第三の「開権顕実」というのは、「権(ごん)を開いて実(じつ)を顕わす」ことである。権とは仮の教え、方便の教えということである。方便の教えを手がかりとして、真実の教えに入ることが「開権顕実」ということである。「方便品」以来、今までずっと説いてきたのは方便の教えであり、今からこの「寿量品」において真実の教えに入るのだということである。


四誡四請(しかいししょう)

霊鷲山釈尊説法の香室跡
霊鷲山釈尊説法の香室跡

 寿量品の最初に、お釈迦様は三度も「如来の誠諦(じょうたい)の語を信解すべし」つまり、これから語る仏の真実の言葉を信解しなさいと誡められる。弥勒菩薩をはじめとする菩薩たちはそれに応えて「ただ願わくは之を説きたまえ」と三度請い、さらに重ねて懇請する。そして、最後にお釈迦様は「汝等あきらかに聴け」と重ねて誡めている。これを三誡三請(さんかいさんしょう)、重請重誡(じゅうせいじゅうかい)と呼び、合わせて四誡四請(しかいししょう)という。


 お釈迦様が説法されるに当たって、聴聞する弟子たちとの間で請願と誡めとが繰り返されるのは、数ある経典の中でこの法華経のみに限られている。わざわざ如来の真実の言葉を信解しなさいという必要がどこにあるのか。


 それは法華経以外の経々は、衆生の機根、過去世の業、性欲(しょうよく)に随順し、衆生が受け入れやすいように説かれた方便の教えであるために、信じやすく解しやすいのに対し、法華経は正直に方便を捨てて真実の無上道を説く教えであり、唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)の境界であるために信じ難く解し難いと言わざるを得ない。だからこそ、ことさらに誠諦(じょうたい)の語を信解すべしと誡めて、不動の信を持てと説かれるのである。


如来秘密(にょらいひみつ)神通之力(じんずうしりき)

 お釈迦様は、多くの菩薩たちが三度お願いし、仏の教えを聞きたいという希望を認めたので「汝等(なんだち)諦(あきら)かに聴け、如来の秘密(ひみつ)神通(じんずう)の力を」とまず仰せられた。寿量品で説かれるのはまさにこの如来秘密神通之力なのである。


 如来の秘密とは如来の本質をいい、神通の力とは如来のはたらきをいう。仏は単に八十年の生涯をこの世に現れて教えを説いたのではない。この世に現れた仏は迹仏であって、ほんとうの仏は本仏でなければならない。その本仏のはたらきは深く広いので、神通之力と言ったのである。


 如来秘密神通之力とは、本仏のすばらしい力のことである。本仏はわれわれの目には見えない。隠されているから秘密なのである。しかし、隠されているからわからないと思うのは誤りである。春の朝に草木が花開き、夏には葉を茂らせ、秋には紅葉し、冬には落葉するのも本仏のはたらきに他ならない。


鎌田茂雄著「法華経を読む」、法定妙意抄下巻参照


霊鷲山にて旭日に向かって南無妙法蓮華経のお題目を唱える
霊鷲山にて旭日に向かって南無妙法蓮華経のお題目を唱える

五百億塵点劫(ごひゃくおくじんてんごう)

 法華経如来寿量品に、釈尊自らその成道が久遠であることを開顕されたが、その久遠(くおん)であることを譬えられたはかりきれない時間をいう。即ち寿量品には「然るに善男子、我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由佗劫なり」と、始成正覚(しじょうしょうがく)を開して久遠実成(くおんじつじょう)を顕されている。これを発迹顕本というが、この次下には、この久遠本地を説き明かさんとして「譬へば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使(たとい)人あって抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて乃ち一塵を下し、是の如く東に行いて是の微塵を尽さんが如き」と記されている。つまり釈尊の寿命が無量であることを譬えられたのであって、五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界をつぶして微塵(みじん)となし、東方の五百千万億那由佗阿僧祇の国をすぎて一塵(いちじん)を下し、このように東方に行き、これらの微塵を尽して、過ぎ去ったあらゆる国をすべて微塵となし、この一塵を一劫としたものを五百億塵点劫という。

良医治子(りょういじし)の喩え

 仏の生命が久遠常住であるのに、どうしてこの地上に現れた釈尊は八十年で入滅されたのか、その意味を説明したのが良医治子の喩えである。

 父(仏)の不在中に誤って毒薬を飲み苦しんでいる子供たち(衆生)に対し、父が良薬(法華経)を与え救わんとしたが、失心の子供たちは薬を服用しようとしないので、父はこれを憐み方便を設けて救わんとして使者を遺わし「父は死せり」と告げさせた。失心の子も悲しみのあまり本心を取戻し良薬を服して病は全治した。このとき父は還り来って仏の寿命の久遠常在なることを開顕したのである。日蓮聖人は失心の子を末法の衆生、良薬を妙法五字、使者を本化地涌の菩薩と解し(観心本尊抄)、自ら仏の勅命を受けて末法濁悪の時代の衆生救済に当たる本化菩薩の自覚に住し、妙法五字の弘通に専心したのである。


久遠実成(くおんじつじょう)

 法華経本門の如来寿量品第十六に説かれた法門で、釈尊が五百億塵点劫という久遠の昔に成仏した三身具足の仏であると説き顕したこと。即ち爾前迹門の諸経では、釈尊はインドの仏陀伽耶の菩提樹下で初めて成道した始成正覚の仏とされるが、本門寿量品に来って「我れ実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」と説かれ、実には五百億塵点劫の久遠の過去世に成仏し、それ以来常に裟婆世界にあって人々を教化してきたと、釈尊が自己を開迹顕本された。これを久遠実成といい、また久遠本仏・久成の仏・本門の釈尊・寿量品の仏ともいう。


以上、日蓮宗事典より