1988年1月17日(日) 帰国2日前

カルカッタ・オベロイ画像検索より
カルカッタ・オベロイ画像検索より

〈in the morning〉

 

 昨日は午後に妙法寺から帰って来てシャワーを浴びた後に外出はせず、一階の頭上に空の見えるテラスのベンチで本を読みながら過ごす。少し日本語の活字に飢えているのか。やはりツーリストの置いて行ったチェーホフの「春の園」という戯曲を読む。最初はあまり興味もわかず、読むのをやめようかとペラペラとめくると百ページ余りなので暇つぶしのつもりで読んでしまう。登場人物が頭に入りだすと面白く読むことができた。その後、五木寛之の「深夜美術館」という短編を読みはじめる。そして夜7時くらいに黒木君に誘われ夕食をオベロイに食べに行こうと4人位で街に出たところで意外なことが起こる。

 

 リクシャーなどが走る夜のサダルストリートで突然、目の前にチャクラバティー氏がバックを抱えた旅の姿で立ってこっちを見ているのだ。ナ―ランダの時もそうであった。彼はまるで大地から湧き出てきたかのように、僕の目の前に現れるのである。インドで彼と逢うのはこれで3度目である。黒木君ら先に行く人に断わりを入れ、彼と店に入りラッシーを飲む。二つ持っているバックの一つは、ブッダガヤーを訪れたオランダ人のツーリストが車から落としてしまったもので、中にはパスポートも入っている。

 

 ブッダガヤーで困りはて途方に暮れているツーリストに事情を聴き、名前とカルカッタでの滞在場所をメモしておいて、たぶんチャクラバティー氏は奔走してそのバックを見つけ出し、わざわざガヤーからカルカッタまでツーリストをさがしてやって来ているのだ。はじめは仕事で来たのかと聞いてみると、どうやらそんなことらしい。でも、これが縁で再び帰国を前に広いカルカッタの夜の街で出会うことが何ともミステリアスである。

 

 その店の男が彼に60ルピーのきれいなホテルを紹介し、20:30に再び夕食をとりに来るようにとのことで一度パラゴンへもどる。「シャワーを浴びた後メディテートするから」彼は毎日、朝晩1時間の瞑想をしているという。パラゴンで再び本を読み、約束の10分くらい前に出てホテルへ向かう途中に、彼が通りに出て待っている。

 

 一緒にチキンロールなるものを4本とウィスキーのボトル1本、それに果物を買ってホテルの部屋へ戻り、水割りを飲みながらチキンロールをつまむ。パラータにオニオンとチキンのマスタード味をくるりと巻いたもので4ルピー。なかなか美味しい。

 

 部屋で3時間ほど、雑談するうちにあっという間に過ぎる。話はインドでのエピソードや友達について始まる。もちろん日本人をはじめインド人ともいい出会いをしているが、あいにくガールフレンドはノーである。彼がカルカッタにも夜の街があり、少々高いが美しいインド女性がいると言い、僕がそういう所へ行きたいかどうか聞く。それを別に望まないと断るあたりから、やはり自分の中にある矛盾に気づかされる。

 

僕にとってインドの旅その全ての行程がメディテーションであると受け止めている。今の僕は宗教的な方向に関心があるのだと答える。

 

“What is a religious?”

“That is a problem of my life”

 

 答えにならないが、そんな返答しかできない。チャクラバティー氏いわく「君は食べたり、眠ったり、それと同じように男女の性なしで生きてゆくことは出来ない」それはその通りである。確かにこれから、上座部仏教の厳しい戒律を守って生きようと思ってはいない。

 

 「今の君は何かを拒むべきではない。人間のやっていること、その全てを体験すべきである。それを受け入れたうえで自らを高めてゆくべきだ」と。苦しまぎれに僕はクリシュナジーを引っぱり出してくる。彼は来訪者の性に関する質問に対して「そのことは、日常の満たされた生活にとって、そんなに重要な問題ですか?」という部分を引用して氏に話す。

 

 今考えるとクリシュナジーは、そのことに関してはもっと別なこと、つまりチャクラバティー氏の方に近い立場で語っていたように思う。ただ僕は自分に都合がよい部分だけを文脈から引っぱり出して解釈したいようだ。そんなことを気付かされる。氏はインドの旅の終わりの3日前に“そのこと”を持って来て僕に届けてくれた。

 

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