法華経を学ぶ

妙法蓮華経 観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)二十五


はじめに

「観世音菩薩普門品」は古来からこれだけをとりだし『観音経』として独立したお経となり、多くの人々に読まれてきた。この『観音経』の主役は西方極楽浄土から来た観世音菩薩、略して観音さまである。観音さまはその容姿がたいへん美しい。聖観音(しょうかんのん)にしても、千手観音(せんじゅかんのん)にしても、如意輪観音(にょいりんかんのん)にしても、その端麗な容姿をじっと見ているだけで心の中まで洗われる気がする。

 

 観音さまの名前を知らない人は稀である。それほど昔から庶民の信仰対象として親しまれてきた菩薩であり、『観音経』は日本人にももっとも広く読誦されたお経の一つである。『観音経』は現世利益を説いた通俗的なお経であると思われるが、実はこれほど宇宙の生命のはたらきを見事に説き明かしたお経はない。だからこそ、時代と地域と人種をこえて信仰されたのである。

 

大意

 種々の苦悩にあった人々が、観世音菩薩の名を一心に唱えるならば、観世音菩薩はその音声を観じて、その人々を苦悩より解脱させることから、観世音と呼ばれているという。観世音菩薩の威神力(いじんりき)によって、免れることのできる諸難や与えられる福徳は、娑婆世界のすべての現象の中に示現(じげん)され、私達を仏道に導くための利益(りやく)としている。

 

 三十三身の形をもって導き示す普門示現(ふもんじげん)は苦悩による導きと喜びの福徳そのものである。即ち、本品の意趣は、前第七巻後半に主張した三昧による心の置き方に対し、観世音菩薩を通して「畏れ無き(おそれなき)」心と身の処し方を私達に教えるところにあり、その上に立って「聞き感じる姿勢」を勧めたものである。

 

日蓮宗修養道場(石川道場)述

 

一心称名(いっしんしょうみょう)

 釈尊に向かって無尽意菩薩(むじんにぼさつ)が、観世音菩薩はどういうわけで観世音というのでしょうか、と尋ねた。これに対し仏は、衆生がいろいろと苦しい目にあった時に、この観世音菩薩の御名(みな)を一心に称(とな)え、どうかお救い下さいというと、観世音菩薩は即時にその声を聞いて、その苦しみや悩みを知り、あらゆる人々を救ってくれるというのである。一心に御名を称えることは観世音菩薩と一体になることである。


称名の功徳 ― 七難(しちなん)

 観世音菩薩の御名を称えるならば、あらゆる災難から免れることができる。経文では、火難、水難、風難、剣難、悪鬼難(あっきなん)、枷鎖難(かさなん)、怨賊難(おんぞくなん)の七難を説いてゆく。

 

①火難 火の中に入っても火に焼かれることはなく、

②水難 水の中に入っても水に漂うことがない。

③風難 多くの衆生が宝を求めて大海に入り、にわかに暴風に襲われて、船が食人鬼の国に流されても、そのうちの一人でも観世音の御名を称える者があれば、他の人々も食人鬼より危害を加えられることなく、無事に宝を得て帰ることができる

 

    災難にあったとき、平然となれる心の修養をすることはむずかしい。しかし「南無観世音菩薩」と称

    えることはわれわれ凡人でも可能である。一心に観世音菩薩の御名を称えていれば、自然に心が落ち着

    いてくる。突然の災難に際しても身を処する方法を見つけ出すことができる。心の持ち方が明るい方向

    に向かうことができる。このことを水の中に入っても溺れず、火の中に入っても焼けることがないと喩

    えたのである。

 

④剣難 刀で斬られそうになったとき、観世音菩薩の御名を称えるならば、刀が折れて斬られることはないと説く

 

    これは日蓮大聖人が龍ノ口で北条氏のために斬られようとしたとき、あまりにも泰然自若(たいぜ

    じじゃく)としていたためにこれを斬ることができなかったことをいう。

 

⑤悪鬼難 夜叉(やしゃ)や羅刹(らせつ)のような鬼が来て、悪眼でにらみつけたり、害を加えようとしても、観世音菩薩の御名を称えるならば害を加えることができなくなる。

 

    赤ん坊をなぐりつける人はいないはずである。赤ん坊には害意もない、恐れる気持ちもない。にっこ

    り笑っている赤ん坊に対して誰が危害を加えられようか。それと同じように、慈悲の気持ちをもってい

    る人に対して害を加えることはできないものである。観世音菩薩の御名を称えることは、自分自身の心

    を慈悲の心に変えてゆくことである。

 

⑥枷鎖難 罪を犯して牢屋に入れられて手かせ、足かせで縛られたり、鎖でつながれたりしたとき、観世音菩薩の御名を称えることによって、これらの束縛から離れることができる。

 

    これは、自分の心持ちさえしっかりした不動の境地にあれば、どんなに縛られていても自由である

    ことができることをいっている。正しい信心がありさえすれば、精神は自由であり得るのである。

 

⑦怨賊難 一人の商人が多くの商人をつれて宝物を持って危険な道を通過しようとしたとき、隊商のなかの一人が、仲間に対して一心に観世音菩薩の御名を称えることを勧めると、観世音菩薩は衆生に無畏(むい)の力を施して下さるという。それによって盗賊から逃れることができる。

 

    災難に遭ったとき、一人の人が真っ青になって震えると全部の人がおびえる。一人の人が泰然自若と

    していると、皆が安心する。「無畏をもって衆生に施す」ということはこのことであり、観世音菩薩のこ

    とを「施無畏者」と云う。

 

三毒を消す

 自分自身の心の中から起こってくる悩みや欲望をどのようにして抑え、どのようにして転換させてゆくかを説く

 

①淫欲  性欲の強い者が、観世音菩薩を敬う気持ちを起こすならば、その欲望を変えてゆくことができる。性欲を断ちきることはできなくても、慈悲心に転換させることは可能である。

 

②瞋恚  瞋恚(しんに)とは怒りのことである。世の中には気が短く、ちょっとした事にも腹をたて、すぐに怒りを発して人を罵ったり、打ったりする人がいる。このような人でも常に観世音菩薩を念じていれば瞋恚を離れることができる。

 

③愚痴  人生も、まわりの環境も無常であることを知れば、愚痴をいうことはなくなるものである。愚痴とは変化する人生を変化しないものと考えるから起こる迷いにすぎない。人間はどんなに愚痴を言ったところで、自分自身も自分をとりまく環境も変わるものではない。愚痴を言う暇があるなら一瞬でもよいから観世音菩薩のことを念ぜよ、というのが経文の教えである。

 

三十三身をあらわす

 衆生には能力の劣った者もいればすぐれた者もいる。ありとあらゆる能力、環境を異にした者がいる。その千差万別の人間に教えを説くには、観世音菩薩が自由自在に姿を変えて応現しなければならない。

 

 たとえば仏身となって救うべき人がいれば、観世音菩薩は仏身に姿を変えて説法する。そこで、仏身、縁覚身(えんがくしん)、梵王身(ぼんのうしん)、帝釈身(たいしゃくしん)など、ありとあらゆる三十三身に応現して教えを説く。三十三身というのは三十三に限定するのではなく、無数のものに応現することをいう。

 

 それは人間や仏や菩薩だけに限らない。あるときには花となり、木となり、虫となり、鳥となり、魚となって教えを説くこともある。森羅万象すべて観世音菩薩の応現とみなすこともできる。谷川のせせらぎの音も観世音菩薩の説法である。

 

 観世音菩薩がこのようにありとあらゆるものに形をかえて、この娑婆世界に住むわれわれを救ってくれるのであるから、一心に観世音菩薩を供養しなければならない、と仏はお説きになられたのである。

 

引用文献 「法華経を読む」 鎌田茂雄先生著