法華経を学ぶ

妙法蓮華経 安楽行品(あんらくぎょうほん)第十四


ブッダガヤー菩提樹下
ブッダガヤー菩提樹下

 法華経を弘める者の決意を説いたのが前の「勧持品」であったが、法華経の行者の心がけを説いたのが「安楽行品」である。安楽行というと簡単に行える修行のように聞こえるが、決してそうではない。安楽行とは、安らかな気持ちで楽(ねが)って修行し、教えを説いてゆくことである。楽うということは自分の意志の力によることである。この「安楽行品」では、外部からの迫害に対してではなく、内心の誘惑に負けない心がけを説かれている。

安楽行品の大意


 八十万憶那由多(はちじゅうまんおくなゆた)の菩薩の大誓願に対し、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)は妙法付属(みょうほうふぞく)への心構えをまとめる意味から、悪世にこの法華経を説くためには、どのような態度が必要なのかを釈尊に問うた。ここに釈尊は四つの行法(ぎょうぼう)を示した。第一は、①強い意志を持ち、柔和善順にして正しくものを見、種々なる世俗に惑わされず、常に偏らない心に親近(しんごん)すること。②そして、より閑(しず)かなる心に親近すること。第二は、会話などで生じる言葉による軽慢(きょうまん)に充分注意し、大いなる教えを示すこと。第三は、軽慢の心を懐かず、深心(じんしん)に恭敬(くぎょう)・礼拝(らいはい)すること。第四は、このような精進を怠らず、接して行くと、必ず諸天が守護して下さること。それは、髻中(けいちゅう)の明珠(みょうじゅ)を与えるが如く、大変尊い事なのである。

 

日蓮宗修養道場(石川道場)述

 

いかに振舞うか~身安楽行(しんあんらくぎょう)


 最初に身安楽行については、行処(ぎょうしょ)と親近処(しんごんしょ)の2つに分けて説かれている。

 

①行 処―自分の身の振舞いについての心得を説く。それは絶えず忍辱(にんにく)の心を保ち、柔和善順で卒暴(そつぼう)でなく、どんなことが起きても慌てることなく、思い上がることなく、物事を正しくわきまえ、軽率な作為を行わないことを行処といい、身の振舞い方の根本を説いている。

 

② 親近処―親近というのは、何かを求めたり、利用したり、おもねる気持ちがあって、権力者や金持ちに近づくことである。第一に、国王・大臣・役所の長官などに近づいてはならない。第二に、仏教以外の外道(げどう)や、邪法(じゃほう)を説く者や、つまらぬ文筆(ぶんぴつ)をもてあそぶ者、人の言いなりになる人や何にでも人の意見に反対を唱える者に近づいてはならない。第三に、つまらぬ勝負事や魔術師に近づいてそれに熱中してはならない。第四に、生きものを殺す人に近づいて残忍性を助長してはならない。第五に、自分だけの悟りを求める小乗の教えを奉じる比丘(びく)や比丘尼(びくに)に近づき、その教えを聞いてはならない。第六に、婦人に教えを説く時は、厳正な態度で教えを説かねばならない。第七に、男性として適格(てきかく)を欠いた人になれ親しんではならない。第八に、ひとりで他人の家に入ってはならない。もしどうしても行かなければならない時は、一心に仏を念じて、仏と二人で入ると思いなさい。第九に、女性に説法する時は、なれなれしい笑顔で接してはならない。第十に、稚児(ちご)のような美少年をそばにおいてはならない。

 

 さらに経文は、第二の親近処を説く。それは静かな場所で瞑想(めいそう)にふけり、心を整えることが大切であると説く。第一の親近処では、具体的に差別の世界について説いたのに対し、第二の親近処では、一切の平等、空無(くうむ)の世界を説いているのである。

 

言葉の戒め~口安楽行(くあんらくぎょう)


説法印の仏陀
説法印の仏陀

 次に2番目に口安楽行を説く。人の過ちや経典にけちをつけるようなことを説いてはならない。さらに経文は、他人の善し悪し、長所、短所を言ってはいけないと説く。たとえ「法華経」の教えとは全く立場を異にする小乗の人に対しても、名指しで悪口を言ってはならない。また、名指しで人を褒めたたえることも慎むべきである。どんな人に対しても、好きだとか嫌いだとか言ってはならない。

 

 このように大いなる慈愛(じあい)の心で接するならば、人の心も自然にわかり、相手の心に逆らわないよう温かな気持ちで答えることができる。これが口安楽行にほかならない。

 

心の持ち方~意安楽行(いあんらくぎょう)


スリランカの仏教徒
スリランカの仏教徒

 3番目に心の持ち方を説いたのが、意安楽行である。まず「法華経」の教えを奉じる者は、嫉妬心(しっとしん)をもってはいけない。自分よりすぐれた人に対して嫉(ねた)む気持ちを持つなということである。また、他人にへつらったり、勝手なこじつけをして自分の心を欺(あざむ)いてはならない。また「あなたのやっていることは方向ちがいだ」とか、「あなたは怠け者だからとうていだめだ」などと、相手がやる気をなくすようなことを言ってはならない。

 

 次に議論のための議論をして言い争いをしてはならない。それは不毛であるからである。さらに、「法華経」の行者は、あらゆる人々にたいして大悲(だいひ)の気持ちを起こさなければならない。特に衆生の苦しみに同感し、その苦しみを救う気持ちをもつことが大切である。

 

 最後に、平等の心で教えを説けという。どんな人に対しても同情の心をもって正しい仏道に入れてあげたい、と思って教えを説けという。

 

教えを弘める誓い~誓願安楽行(せいがん・・・)


 最後に釈尊は、文殊菩薩に対して誓願安楽行を説く。菩薩が末世の世の中で、まさしく仏法が滅ぼうとするとき、「法華経」を受持する者はどんな心がけを持てばよいか説かれる。

 

 まず在家者にも出家者にも大慈(だいじ)の心を起させるとともに、さらに菩薩でない人にまでも大悲の心を起させることが必要である。菩薩でない人とは、自分の悟り、自分の救いばかり考えている人である。自分だけがよければよいと考えて生きていても、決して満足できるものではない。そのような人に教えを説き、ともに大乗(だいじょう)の真実の道を信じるようにしようと決心すること、それが誓願ということである。

 

 末世においては仏の教えを信じる人はほとんどいない。そのようなときに仏の教えを弘めることは大変な苦労であるが、あえてそれを実行しようと決心するのが誓願安楽行である。

 

常に此処に住して法を説く
常に此処に住して法を説く

 この誓願安楽行を果たすには、まず第一に仏の不生不滅(ふしょうふめつ)を信じることでなければならない。どんな時でも、どんな悪世においても、仏は自分と共にあるという確信が支えとなって、不退転(ふたいてん)の誓願行が可能となる。「法華経」を弘めるときにどんな迫害者(はくがいしゃ)が現れても、仏が説く人を護ってくれる。その理由を、経文には「この経はこれ一切の過去、未来、現在の諸仏の神力(じんりき)をもて護りたもう所なるが故に」と説かれている。

 

 

以上「法華経を読む」鎌田茂雄著参照

 

髻珠(けいしゅ)の喩え


 四つの安楽行を説いた釈尊は、次いで「法華七喩(ほっけしちゆ)」の第六である「髻珠の喩え」によって「法華経」の教えがもっともすぐれた教えであることを説かれる。

 

 その喩えは、世界を統一する転輪聖王(てんりんじょうおう)が戦いにおける勇者に髻(もとどり)に秘蔵(ひぞう)する宝珠(ほうじゅ)を容易に与えず、最大の戦功者のみに与えるように、仏もまた一切衆生成仏の教たる法華経を容易に説かず、一切の煩悩を対治する真の勇者に説き与えるのであるという喩えである。

 

 即ち仏が法華経を説いて、すべての権教(ごんきょう)を開会(かいえ)して一乗真実(いちじょうしんじつ)の教を顕し、二乗も必ず成仏するとの証明を与えたことに喩える。

 

日蓮宗事典参照