二十六日 懺悔(さんげ)滅罪(めつざい)

光日房(こうにちぼう)御書にいわく

 それ、針は水にしずむ。雨は空にとどまらず。

 

 蟻子(あり)を殺せる者は地獄に入り、死にかばね(屍)を切れる者は悪道をまぬがれず。

 

 いかにいわんや、人身(にんしん)をうけたる者をころせる人をや。

 

 但(ただ)し大石(だいせき)も海にうかぶ、船の力なり。

 

 大火もきゆる事、水の用(はたらき)にあらずや。

 

 小罪なれども、懺悔(さんげ)せざれば悪道をまぬがれず。

 

 大逆(だいぎゃく)なれども、懺悔(さんげ)すれば罪きえぬ。

 

(1 55歳 2 建治2年 3 身延 4 1158頁)

口語訳「日蓮聖人全集」より

 針が水の中に沈み、雨が空中にとどまらないように、蟻を殺した者も地獄に堕ち、死んだ屍体を切った者も地獄・餓鬼・畜生の三悪道へ堕ちることから免れることはできません。まして、人間を殺したとすればなおさらのことです。しかし、大石も船の力を借りて海に浮かぶことができ、大火も水の働きによって消すことがきるように、小さな罪でも悔い改めなければ必ず悪道に堕ちますが、大きな罪を犯した人でも悔い改めればその罪は消えます。

懺悔「日蓮宗事典」抜粋より

 懺はKs.amaの音写で、自ら犯した罪のゆるしを請うこと。悔はa ̄patti-pratides'anaに当り、くやむこと。懺悔が自己の罪を認めて「忍恕(ゆるし)を願う」ことであるならば、自己のすべてを投げ出して「告げる」(desa'ana ̄)ことがなければならない。倫理的にも宗教的にも大切な実践徳目である。殊に天台宗の法華懺法は懺悔滅罪を目的とする修法であり、また受戒の儀式には必ず受者の懺悔の段がある。