一日 仏子の自覚

法華取要抄にいわく

 此の土の我等衆生は五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)よりこのかた、教主釈尊の愛子(あいし)なり。

 

 不幸の失(とが)によって今に覚知(かくち)せずといえども、他方の衆生には似るべからず。

 

 有縁の仏と結縁の衆生とは、たとえば天月(てんげつ)の清水(せいすい)に浮かぶがごとし。

 

(1 53歳 2 文永11年 3 身延 4 812頁) 

口語訳 「日蓮聖人全集」より

 この娑婆世界の我ら衆生は、五百億塵点劫のはるか昔から、教主釈尊の愛子である。その教えにそむいた不孝のとがによって、今日までその愛子であることに気づかなかったが、他の世界の衆生とは全く関係がことなるのである。五百億塵点劫のはるか昔に縁を結んだ釈尊と私たちの関係は、天の月がおのずと清い水に影を宿すようなものである。

五百億塵点劫 「日蓮宗事典」抜粋より

 法華経如来寿量品に、釈尊自らその成道が久遠であることを開顕されたが、その久遠であることを譬えられたはかりきれない時間をいう。即ち寿量品には「然るに善男子、我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由佗劫なり」と、始成正覚を開して久遠実成を顕されている。これを発迹顕本というが、この次下には、この久遠本地を説き明かさんとして「譬へば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使人あって抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて乃ち一塵を下し、是の如く東に行いて是の微塵を尽さんが如き」と記されている。つまり釈尊の寿命が無量であることを譬えられたのであって、五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界をつぶして微塵となし、東方の五百千万億那由佗阿僧祇の国をすぎて一塵を下し、このように東方に行き、これらの微塵を尽して、過ぎ去ったあらゆる国をすべて微塵となし、この一塵を一劫としたものを五百億塵点劫という。