法華経を学ぶ

妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)法師功徳品(ほっしくどくほん)第十九

インド霊鷲山
インド霊鷲山

 この法師功徳品では、とくに「法華経」の教えを説き弘める人の功徳を説いている。ここで「法師」というのは専門の僧侶という意味ではない。法師とは教えの師であり、教えを人に説く人はすべて法師なのである。


 「法華経」の教えのすばらしいことをほんの一つでも知って、どうしてもその教えを他の人々に聴かせたい、話したいという気持ちをもったならば、その人こそ真の法師というべき人なのである。


法師功徳品の大意

 この品において、法華経は苦楽を共にする人間の中に宿り、長遠(じょうおん)なる生命が顕われることを示す。即ち、この教えを悟ることによって眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根が必然として清浄に荘厳されることを言う。なるがゆえに、法華経の受持・読・誦・解説(げせつ)・書写の五種の法行は不可欠なる事を強調する。


 言い換えれば、無辺なる妙法の教えを持続して行くためには、分別品は信、随喜品は喜、功徳品は徳の観点から説かれたものと言えよう。

日蓮宗修養道場(石川道場)述


霊鷲山にて法華経読誦
霊鷲山にて法華経読誦

五種法師(ごしゅほっし)

 法華経でいう法師とは、「法華経」を受持(じゅじ)し、読み、誦(じゅ)し、解説(げせつ)し、書写する人をいい、この五つを実践する人であるから五種法師と云われている。


 第一の受持とは、「法華経」の信仰をずっと持ちつづけてゆくことである。心の中にしっかりと信仰を持ち続けて行くのが受持である。


 第二の読むというのは、経文をまず読むことが大切である。読んだら第三の誦に進む。諳誦(あんじゅ)することである。経文を諳誦することによって教えが身についてゆく。ここまでは自分の信仰を深め、教えを深く知るためのいわば自利行(じりぎょう)である。


サルナート・ダメークストーパにて
サルナート・ダメークストーパにて

 第四の解説とは説法である。教えがほんとうに理解できると、心の中から深い喜びが湧きたってくる。そのためどうしてもまだ教えを知らない人にも教えを説きたくなる。それは教えを説かずにはおれない気持ちなのである。


 さらに第五の書写になると、法華経の経文を写経したり、または教えを文書に書いて弘めることである。解説や書写は利他行(りたぎょう)になる。五種のなかの最初の三つは自分のため、後の二つは人のためにやることになる。


六根清浄(ろっこんしょうじょう)

 五種法師の実践を正しく行ってゆくと、この人は眼や耳や鼻や身やこころにさまざまな功徳がそなわることになる。この無限の功徳によって、眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い)の六根(ろっこん)を清めることができるようになる。六根を清めるというのは、心が清らかとなるため、六根のはたらきが自由自在にできるようになることである。

眼の功徳

 私たちが「父母所生の清浄の肉眼」をもって見れば、どんなものでも見ることができると説く。別に千里眼や透視能力をそなえる必要がない。父母からもらったこの自分の目で見よということである。その眼が澄んでおり、清らかであれば三千世界の中にどんな山河も海も、下は無間地獄から上は有頂天の天上界までの、どんなものでも見ることができるという。その中に生きている衆生の業も因縁も果報もすべて見通すことができる。

耳の功徳

 清浄の耳とは、世の中のどんなことを聞いても本当のことを聞き分けることができる耳である。この清浄の耳はあらゆる世界の人間ばかりでなく、動物の声も、天上界の神々の声も、菩薩の声も聞き分けることができるようになる。しかもその声をありのままに聞くことができるようになる。別に天耳(てんに)、すなわち神通力をそなえた耳を持っていなくても、父母から受けた人間の耳でも清浄であれば、ありとあらゆる声を聞くことができる。

鼻の功徳

 清められた鼻は、あらゆる香りをかぎ分けることができる。ありとあらゆる花々の香りをかぎ分け、さらに人間、動物、男、女、童子、童女など、生きとし生けるものすべての香りをかぎわけ、さらに人間界だけでなく、天上界の栴檀(せんだん)、抹香(まっこう)曼珠沙華香(まんじゅしゃけこう)などすべての香りもかぎ分けることができるようになる。そして、われわれが真剣に読経していれば、読経の香りがその人の身辺にただよう。人間には香(か)がただようことを説いたこの「法華経」の教えはすばらしい。その人の身辺にかんばしい香がただようのは、一にその人の修行力による。

釈尊説法の香室にて
釈尊説法の香室にて

舌の功徳

ベナレス午後の説法
ベナレス午後の説法

 舌の功徳とは二つある。一つは食べ物の味がよくなること、一つは説法が大いなる効果をあげることである。清浄な舌で説法すれば、聴衆はその説法を聞いて大いなる喜びと豊かな心を味わうことができる。正しい教えを清らかな心で説く人には、仏もその人に向かって教えを説くようになる。そのようになると単なる自分の説法ではなく、自分の説法は仏と一緒の説法となるのである。

身の功徳

ガンダーラ仏像
ガンダーラ仏像

 法師としての五種の行(ぎょう)を積んで行けば、身に無限の功徳がつき、清らかな身となることができると説く。そして、長い間の修行によって身体は単なる物質ではなくなってくる。それは霊的存在となる。身体は修行によって無限に感度と純粋度を高めてゆくことができる。身体を朝鍛夕練(ちょうたんせきれん)することによって、身体には宇宙の生命、大地の気が感応するようになる。仏の生命が乗りうつるようになる。

意(こころ)の功徳

 清浄の意根とは、すっかり煩悩や迷いがなくなった清らかな心である。このような清らかな心で経文の一偈でも一句でも聞けば、短い文句でも、はかり知ることができない無量無辺の深い意義がわかるようになる。これを人に向かって説かなければならない。そのわずか一句の意義を説き明かすために、一カ月でも、さらに一年かかっても、なお説くことは無限にある。このようにして説くところは、仏のお説きになった趣旨と違うことなく、また諸法の実相、すなわち宇宙の真理に背くことがないのである。


 この「法師功徳品」では、法師の行うべき五種の修行を実行してゆけば、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根を清浄にすることができるようになり、その清らかな六根には無限の功徳がそなわることを説いている。


「法華経を読む」鎌田茂雄著より抜粋