自我偈(じがげ)のこころ

自我偈は法華経の魂魄

 法華経が一切経の中で、釈尊(しゃくそん)のおさとりをそのままに説かれた唯一の真実教(しんじつきょう)であることを見出し、末法(まっぽう)という今の時世には特に釈尊が法華経の寿量品(じゅりょうほん)の文(もん)の底(そこ)に秘(ひ)してとどめおかれた妙法蓮華経の五字こそ無二の要法(ようぼう)であることを知られて、これを強く主張せられた日蓮聖人の教からすれば、各宗の依って立つ経典は、すべて釈尊が人々を教え導く手段として説かれた方便の教であるから、いまだ義理をつくさず従って無得道であり、法華経はさとりそのままに説かれて真実をあらわした最上の教なる故に成仏の直道(じきどう)となりましたから、法華経の真実を説けば説くほどに、念仏や禅や真言の人々から、日蓮聖人は憎まれ、怨(あだ)まれて「大難は四ヶ度、小難は数知れず」と記し残されている程に数々の法難(ほうなん)にあわれました。

 

 大善(だいぜん)を弘むる者は、大悪と戦はねばならないからでありました。正しい者が正しくない者たちから排撃(はいげき)されるのはやむお得ないことでした。法華経の勧持品(かんじほん)の中には、仏の滅後に、この経を弘めると、悪口罵詈(あっくめり)、刀杖瓦石(とうじょうがしゃく)、数々擯出(さくさくひんずい・しばしば居所を追い出される)などの大難をうけることを予言されております。奇(く)しくも日蓮聖人のご生涯が、この予言の通りに大難を身にうけられたのであります。日蓮聖人の正しさがこれでわかるではありませんか。

 

 この日蓮聖人が法蓮鈔(ほうれんしょう)の中において

 「それ法華経は一代聖教(しょうぎょう)の骨髄(こつずい)なり。自我偈は二十八品の魂魄なり。三世(さんぜ)の諸仏は寿量品を命と為し、十方の菩薩は自我偈を眼目と為す」

と云われています。法華経は一切経の中の骨髄であり、自我偈はその法華経二十八品の中のたましいである。過去、現在、未来の三世の諸仏はみな法華経の寿量品を命とし、十方の菩薩はすべて寿量品の自我偈を眼目としている、という意味であります。自我偈がどのように重大な位置にあるか、このご文章でおわかりいただけたことと思います。

 

自我偈ほど広く読まれているお経はありますまい。日本国中どこへ行っても、この自我偈を読まないところはありません。この自我偈が読まれない日は恐らく一日もないでしょう。日蓮聖人ご自身も常に読まれ、信徒にもすすめられているのも、このような重要な意味があったからでしょう。

 

 では一体自我偈にはどんなことが説いてあるのでしょう。わかり易く口語体に訳してみます。

 

自我偈の言葉

① 私が仏に成ったのは、経過(けいか)した年数が計(かぞ)えきれないほど遠い昔のことであった。

 

② それから常に教えみちびいて量(はか)り知れない多くの人々を仏の道に入らしめて今日に至っている。

 

③ 人々を教えみちびかんために入滅(にゅうめつ)してみたりするが、実には死んだのではなく、常にこの世に住(じゅう)して法を説いているのである。

 

④ 私は常にこの世に住んでいるが、種々の神通力をもって、正しく見たり考えたりすることの出来ない人々には、近くにあっても見ることが出来ないようにしているから、仏はいないと思うている。

 

⑤ 人々は私が死んだと見せかけると、盛んに舎利を供養する法会(ほうえ)を開き、一同に亡き仏を恋い慕い、渇(かわ)ける者が水を求むるようにはげしく仏を思うようになるであろう。

 

⑥ 人々はかくて仏の尊さに気づき、まごころをもってその教えに従うようになり、飾り気なく素直な、和(なご)やかな心となり、一途(いちず)に仏にまみえたきものと熱望し、身命(しんみょう)をも惜しまなくなるようになると、その時には私は弟子達と共に法華経を説いたところ法華経のあるところ、法華経を信ずる人の居るところに現れるであろう。

 

⑦ 私は時に人々に、常にこの世にあって滅することはないが、教え導く手段として滅してみせたり、不滅であると説いたりする。

 

⑧ この娑婆世界(しゃばせかい)以外の、他のいかなる国においても、もし人々が仏を恭敬(くぎょう)し信じ楽(ねが)うならば、私は往(ゆ)いてその人々に無上の法を説くであろう。だのに御身等(おんみら)はこれを聞かずして私が滅度してしまったと思いこんでいる。

 

⑨ 私がこの世における人々の有様をみれば、四苦八苦の云わゆる苦界(くかい)の中に浮きつ沈みつしている。故に私は身をかくして、それ等の人々をして渇仰(かつごう)をおこさしめるのである。その心恋慕(れんぼ)するようになれば、そこで身をあらわして法をとくのである。

 

⑩ 神通力(じんづうりき)とはこのようなものであり、阿僧祇劫(あそうぎこう)という数えきれない永い年月がたっているが、私は常にこの娑婆世界の霊鷲山(りょうじゅせん)やその他の住処(じゅうしょ)に住んでいる。

 

⑪ 人々の住むこの世界終滅(しゅうめつ)せんとし大火に焼かれる時至も、我の住む仏の世界は安穏(あんのん)にして天人常に満ち、園林(おんりん)茂り、堂閣いらかを並べ、種々の宝でかざられている。珍しい樹々に美しい花果(けか)が多く、人々が遊楽している。天上からは諸天の奏する伎楽がきこえ、曼荼羅華(まんだらけ)がふり、美しい花びらが仏や人々の上に散りかかっている。

 

⑫ 私の住む仏の世界はこのように安穏であるのに、人々の住む世界は焼けつき、憂(うれ)いや怖(おそ)れ、いろいろの苦しみや悩みがこのように充ち満ちている。

 

⑬ この罪深い人々は、悪業の因縁で阿僧祇劫(あそうぎこう)という永い年月を過ぎても、仏、法、僧という三宝の名さえ聞くことが出来ないでいる。

 

⑭ いろいろ功徳をつみ、柔和でかざらず素直な心をもつ者は、私がこの世にあって法を説いているのを見ることが出来る。

 

⑮ 或る時はこの人々のために、仏の寿命は無量であると説き、久しき後の世になって仏を見たいと念ずる者に対しては、仏に値(あ)うことはむずかしいと説いたりする。これは矛盾ではなく巧みに導く手段として説くところで、わが智慧の力のなせるところである。仏の智慧の光は一切を照らし、寿命は限りなく永い。これも自然にさずかったものではなく、久しい修行の結果証(さと)り得たところのものである。

 

⑯ 御身等(おんみら)智あらん者よ、ここに於て疑うことなかれ、まさに疑を断って信ぜよ。仏の言葉は真実にして虚妄(こもう)はないからである。

 

⑰ 子供等が誤って毒薬を飲み、苦しみあえぎながら良薬を与えたるも敢えて飲まないのをみ、父他国に死せりと告げしめて、巧みに服用せしめ、子の癒(い)ゆるを待ちて帰ってきた父なる良医を、誰人も嘘つきとそしらなかったように、私もまた世間の人の父として人々の苦しみや患いを救う者であり、凡夫が迷うていればこそ、実にはこの世に居るのだが滅してみせたのであった。

 

⑱ もし常に私がこの世に在るを見れば、凡夫の常として、いつでも救って貰えると思い、ついほしいままの心を起し、なおざりとなり、五つの欲楽(よくらく)におぼれ、悪道に墜ちこむこととなるからである。

 

⑲ 私はいつも人々が道(どう)を行うか、どうかをみきわめて、それに応じて種々に法を説いてきたが、つねにどうしたら人々を教え導いて無上道に入り、速やかに仏身を得せしめることが出来るかと、それのみを念じている。

 

久遠の本仏とは

 以上が自我偈の説くところであります。印度に生れ、王城の太子でありながら出家して道を求め、仏陀伽耶の菩提樹下に坐して悟りを得られたと誰もが思うていたのに釈尊はこの法華経の如来寿量品にくると、自分の成仏は久遠の昔のことであり、不滅の身をもって常に人々を教え導いて今日に至っていることをあかし、教え導く手段として仮に生まれたり死んだりしてみせていたと説かれました。会座につらなる人々が驚いたのも無理がありません。一切経の中にお経典は多くありますが、このようなことを説かれたのは、この法華経以外に全くなかったからであります。全仏教経典の中で、釈尊自身がそのご身分の久遠実成(くおんじつじょう)なることを明かされたのは、実にこの法華経だけであります。

 

 釈尊の成仏が久遠の古い昔のことであったというだけでなく、自我偈の②には、その古い昔の成仏の日から常に人々を教えみちびいて、量り知れない多くの人々を仏の道に入らしめて今日に至っている、と云っているように、人々を教化する活動を休むことなくつづけているのであります。

 

 そしてこの間に燃灯仏(ねんとうぶつ)などいろいろの名で法を説いたことを、自我偈の前の長行(じょうごう)という部分で説いています。仏教の根本の立場から云えば、一仏一刹土(いちぶついちせつど)で娑婆世界は釈迦如来の教化のところであり、阿弥陀仏は西方の極楽世界、薬師如来は東方の浄瑠璃世界(じょうるりせかい)が教化の国というように、あらゆる仏にはそれぞれ教化の国が決まっているのであります。だから他国へ行って教化することはないのです。だのにいま法華経にくると、釈尊が久遠の昔に成仏してより、常に人々を教えみちびいて今日に至っているといい、この中間にいろいろの名で教えを説いたというから燃灯仏とも阿弥陀仏とも、薬師如来とも大日如来ともいう名で説き、またそれぞれの仏の姿を現して教えたことをはじめてあかしました。だからこそ自我偈の中で⑧「この娑婆世界以外の、他のいかなる国においても、もし人々が仏を恭敬(くぎょう)し、信じ楽(ねが)うならば、私は往(ゆ)いてその人々に無上の法を説くであろう」と云っているのであります。

 

 一仏一刹土ならば他へゆくことは出来ません。だのに極楽世界でも、浄瑠璃世界でもどこへでも信ずる人、敬う人が居さえすれば、釈尊がゆくということは、実は一仏一刹土として説いた経典はすべて方便のために、仮に説いたところで、阿弥陀仏も薬師如来も大日如来も、すべての仏は、この久遠実成の釈尊が、そうゆう仏の名で説いたまでで、別にそうゆう仏が実在するわけではない、ということです。一天の月が、沼にも川にも田にも、たらいにも、洗面器の水にも、影を浮かべますが、もとは天の一月であると同じであります。

 

帰依すべき本尊

 驚くべきことです。仏教経典に説かれている幾百、幾千の仏さまは、すべてこの法華経の寿量品でその本地(ほんじ)を開顕(かいけん)せられた久遠実成の釈迦牟尼仏が、人々を教えみちびく手段として方便のために、仮にその姿をあらわしたものであったのです。

 

 成るほど、云われてみれば、阿弥陀さまも、大日如来も、薬師如来も、どこの国で生まれたという仏ではなく、すべて釈尊の説話の中にあらわれている架空の仏さまであります。印度へ生まれた釈尊こそ仏教の唯一の開祖であり仏であります。その釈尊の本地が開顕されて、あらゆる仏さまはすべて久遠実成の本師釈迦牟尼仏にとういつされたのであります。何と素晴らしいことではありませんか。

 

 この本仏こそ絶対者であり、唯一者であり、私たちの帰依(きえ)すべき根本の尊貴(そんき)なる仏であります。

 日本乃至一閻浮提(いちえんぶだい)一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。

と、はっきり帰依すべき本尊として、法華経本門寿量品においてその本地をはじめて説かれた久遠実成の釈迦牟尼世尊をあげ、日本をはじめとし、一閻浮提という全世界がひとしく帰敬(ききょう)すべきを示されています。

 本尊を誤っては成仏は出来ません。架空のもの、無力のもの、仮のものを頼っては努力がみのりません。

 

 今こそ帰依すべき本尊は、久遠実成の本師釈迦牟尼仏であることを、はっきり知って下さい。この本尊にまごころをこめるのです。信仰をささげるのです。そしてこの御本尊と私たちが交流出来るのは、南無妙法蓮華経と唱題することです。この御題目の声が御本尊に通じ、この声に御本尊が感応されるのです。まごころをこめて唱えましょう。そうすれば自我偈の⑥に云うように、信ずる人のところに本仏の力、法の力が及んできます。仏がそこへあらわれるとは、必ず救済力が加わるということです。

 

仏の浄土と娑婆世界

 更に自我偈の⑪には、安穏な仏の世界が説かれています。「天人が常に満ち、園林茂り、堂閣いらかを並べ、種々の宝でかざられている。珍しい樹々に美しい花果が多く、人々が遊楽している。天上から諸天の奏する伎楽(ぎがく)がきこえ、曼荼羅華(まんだらけ)がふり、美しい花びらが仏や人々の上に散りかかっている」とありますが、法華経八巻の中に仏の世界を説いているのは、実に自我偈のこのところだけであります。

 

 阿弥陀如来の極楽世界は西方、薬師如来の浄土は東方浄瑠璃世界というように、それぞれ方向が示されていますが、今、ここでは私たちの住む娑婆世界の出来ごととして世界終滅の日に、大火がおこり、すべてが焼きつくされるときも、仏の住む国は安穏にして、とあり、いづれの方向にあるともありません。このことは私たちの住むこの娑婆世界以外の他のところに、仏の世界があるのではなく、実にこの娑婆世界こそ仏の浄土なのだということであります。娑婆世界以外に仏の浄土があると説き、そこへ往くことを説くのは、全く教化の方便であって、人間は娑婆世界に生れ、ここで生活し、ここで死んでゆくではありませんか。だから、この世界こそ、仏もましまし、このところこそ仏の浄土もあるのです。これをはっきり知って下さい。

 

 だから私たちは、醜悪なことの多く、苦悩の絶えないこの娑婆世界に住いながら仏に帰依し信仰することによって、仏を見、仏の浄土を知ることが出来るのです。いかに多くの人が日夜に救われていることか。自我偈を読み、御題目を一心に唱える人の多きを見ればわかります。そしてこれを一部の者だけに終らせず、すべての人々の努力で、この娑婆世界を仏の国のように立派にすること、この地上に仏の浄土を実現することこそ法華経を信ずる者のつとめでであり、理想であります。日蓮聖人はこれを娑婆即寂光(しゃばそくじゃっこう)と云っています。

 

自我偈のこころ

 穢れ多く、憂いのつづくこの世において仏の浄土に入るには、まず仏のましますのを見るように努めることです。自我偈の⑥には、「仏の尊さに気づき、まごころをもってその教えに従い、かざり気なく素直な、和やかな心となり、一途に仏にまみえたきものと熱望し、身命をも惜しまなくなるようになると、その時には私は弟子達と共に」その人のところに現れると云い、⑭には「いろいろ功徳をつみ、柔和でかざらず素直な心をもつ者は、私がこの世にあって法を説いているのをみることが出来る」とありますから、この心になれば仏を見ることが出来るというのです。殊に日蓮聖人の教えによれば、これを教えられた久遠実成の本仏釈尊のおさとりこそ妙法蓮華経でありましたから、これをそのまま受け持(たも)って、南無妙法蓮華経とこの心をもって唱えれば、仏のましますのを見るばかりでなく、凡夫である私たちが仏となれることを、身をもって知ることが出来るのであります。

 

 釈尊の久遠実成を明らかにせられた自我偈が自我得仏来と自ではじまり、速成就仏身と身で終っていますから、仏のことを説かれたと思ったらこれを信じ読む人自身のことであったのです。他人のことでなく、自我偈を読むあなたのことであり、私のことであったのです。何と驚くべきことでしょう。

 こういうお互いであったからこそ、自我偈の心を生かして御題目を唱えれば、必ず仏を見ることが出来、仏となることが出来るのであります。お互い手をたずさえて、光明を仰ぎつつ希望の道を力強くすすみましょう。

 

 

 

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