今日で令和4年の太歳三箇日もお仕舞ですね。
今日一日は長い間、龍泉寺の世話をして下さった総代さんの葬儀でした。
コロナとお正月と云うこともあり、ご家族でしめやかな式となりました。
取り上げ初七日は斎場から本堂に移り、80年のご生涯の半分以上通った龍泉寺で。
お孫さんの青年たちがお参りしてくれたので、このお正月で思ったことをお話しました。
南無とはインドの言葉でナーム、その意味は帰命と云うことです
南無妙法蓮華経とは妙法蓮華経の世界へ命が帰るということになります
お正月には日本人は神社仏閣に初詣をして祈ります
何者のおわしますかは知らねども、忝さに涙こぼるる、です。
天照大神、八幡大菩薩、天神様、奈良の毘盧遮那仏、薬師如来、阿弥陀様etc
インドに行けば梵天のブラフマン、帝釈天、西洋ではイエスキリスト、アラーの神etc
しかし、諸々の神仏は人間が作り出したと言えば言い過ぎかもしれませんが、
人間の誰かが感得したものにすぎません。
なぜなら、その人以外はその神仏に逢った人がいないからです。
妙法蓮華経とは単なるお経の題目ではありません
目に見えない何か大きな久遠の命のことなのです
妙法蓮華経とは私に与えられた命の名号です
日蓮聖人は、その命の世界を、流罪の地の佐渡で初めて大曼荼羅本尊として顕されました。
私はある時は地獄餓鬼畜生に、ある時は人間や菩薩としてこの一年を過ごすでしょう。
大曼荼羅はそんな私たち一人一人の姿なのです。その本尊の中心は南無妙法蓮華経です。
総ての人が「真実の自己」を悟る言霊が南無妙法蓮華経のお題目です。
龍泉寺本堂に安置した第一の本尊は日蓮聖人が現代の全人類に残した法華経の本尊です。